高槻ラズベリー

ライブから1週間近く経ってしまったけど
やっと書けます。
おそらく死ぬほど長い文章になります。
しかしある種自分の人生においての大きな出来事であり
備忘録としても残しておきたいので書かせて頂きます。
 
 
僕が16歳から25歳まで9年間活動したバンド
HOT SONIC
そのHOT SONICを産み、そして育ててくれた
ライブハウス 高槻RASPBERRY
2019年3月31日をもって 閉店が決まりました。
 
思えば僕がバンド人生を歩む事になったそもそものきっかけは中学二年生の時の文化祭でした。
1つ年上の先輩たちが体育館のステージ上で輝く姿を見て
当時の仲間たちと「来年俺たちも出よう」と意気込み
図書館で英語やフランス語の辞書を引っ張り出してまずはバンド名を決めるのに時間を費やすという
本当にままごとの様な始まりでした。
安物のギターを親に買ってもらうもうまく弾けず、
他のメンバーも大して練習はせず
結局中学3年生での文化祭で華々しいデビューを飾る計画は実現しませんでした。
 
そして高校に入学し
たまたま楽器を弾ける友達が揃ったので1年の文化祭で念願の初ライブ。
その日ドラムを叩いていたのが当時のクラスメイトである
HOTSONICドラムよこしんでした。
彼は既に地元でバンドを組んでおり、
一緒にバンドをすることは出来ないはずだったのですが、
文化祭はメンバー全員在校生である事が条件だったので
一夜限りのバンドを結成しました。
しかし何を思ったか一回もスタジオ練習せずのぶっつけ本番で
惨憺たるステージになりました。
 
しかしその文化祭で共演した3年生の先輩達との出会いが僕を高槻ラズベリーに導いてくれました。
もう十数年会っていないし
この文章を見てくれる事はないかもしれませんが
ゲンくんと白石くん、僕は今でも感謝しています。
 
僕は京都の私立高校に通っていたので
京都はもちろん、僕の様に大阪から通う生徒や
滋賀、奈良から通う生徒もいました。
ちなみに高槻ラズベリー最後の店長 しもてくんもこの高校の1つ上の先輩で、高槻出身でした。
茨木から通う僕と同じく 阪急電車での通学組。
そして文化祭で共演したゲンくんと白石くんも同じく高槻や茨木の出身だったのです。
その先輩達のバンドは当時僕がハマりはじめていた
いわゆるメロコアや青春パンク
Hi-STANDARDやGOING STEADYの曲を演奏しており
バチバチに盛り上げていました。
 
当時から厚かましかった僕は当然その先輩達に話しかけ、
じゃあ今後高槻のライブハウスでのライブおいでと言って頂き
人生で初めてライブハウスに足を踏み入れたのでした。
 
当時のラズベリーはまだ現在の場所ではなく
171号線沿い チョコレート工場とスケートリンクの敷地内に
広大な駐車場を挟んでポツンと佇む建物でした。
書いていて懐かしくなります。
チョコレートの匂いがした次の日は絶対雨が降るというジンクスがあり、
それを歌詞にした曲もありました。
 
初めて行ったライブは超満員で死ぬほど盛り上がっていました。
HOTSONIC初期にお世話になったVUSHIDUも出演していました。
当時はYoutubeなんてもちろんなく、
今みたいにライブ映像を手軽に見れる様な環境もなかったので
僕にとって未知であり衝撃的であり、
何より刺激的な世界でした。
すぐさま僕もこのステージに立ちたいと思い、
先輩と一夜限りのバンドを結成し 数ヶ月後にはその願いが叶いました。
そのライブもなかなかひどいものでしたが、
思い出に残る日だったのは間違いありません。
 
 
そしてその日のライブによこしんが来ていました。
当時よこしんが地元で結成していたバンドは
中学校の文化祭などではライブしていたそうですが、
卒業してバラバラになってからは練習だけしてライブをしない方針という
謎のバンドでした。笑
なので彼は練習は地元のバンド、ライブハウスに出るバンドは僕と組むという決断をしてくれました。
同級生の久保がギター、よしふみがベースとして加わり
ここでHOT SONICが結成されたのです。
本当は最初違うバンド名でしたが、京都某所のギャングチームと名前が被り
西高の直紀ってやつが俺らの名前騙ってるぞという
ヤンキー漫画みたいな展開になりかけましたが
同級生にそのギャング達と仲良い友達が居て事なきを得ました。笑
 
そして実質HOTSONICのライブハウス初ライブ。
高校2年生にあがる直前の4月でした。
あれはもう20年近くも前の事なんだなあ〜
演奏するだけではダメだ!!
盛り上げないと!!
という今思えば当たり前な前回の反省を活かし、
学年中にチケットをばら撒き 地元や保育園時代の友達にまで連絡して
かなりの人数が集まってくれました。
その時に僕の保育園の時の同級生と一緒に見に来てくれたのが3QUARTERのたいらでした。
当時たまたま僕と同じ中学出身の女の子と付き合っていたので
それをめっちゃイキって言って来たのを覚えて居ますし
今でもイジります。笑
 
イベントがスタートし
腹黒い僕は 僕らの前に出演していた年上のバンドの演奏時に
先陣を切って周りを巻き込み盛り上げまくり、
その空気のままHOTSONICが登場しました。
僕の計画通り 温まったままの会場で
最高のライブをすることができました。笑
なんの曲やったっけな〜
翼をくださいのパンクアレンジとか
小さな恋のうたとか
175RのSAKURAを演奏した気がします。
懐かしすぎるな〜実家にVHS残ってないかな…笑
 
 
そこから始まったHOTSONICの歴史
色んな事がありました。
そしてHOTSONIC初期の大半のライブを行った高槻ラズベリーは本当にもう1つの学校の様な場所でした。
他の学校の同世代とあんなに自然に出会える場所があるのは僕にとってとても幸せな事でした。
そして先術した様に僕が通って居た高校は色んな地域から生徒が集まっていたので
僕は謎のコミュ力を発揮しクラスメイトの地元のメンバーとまでどんどん仲良くなっていき
茨木高槻全域、京都、滋賀にまで友達が広がっていくという
今思えばなかなかすごい事が起きてました。
 
更に言うと当時流行っていた
「魔法のiらんど」という無料HPみたいなものがあったのですが、
それで結構色んな地方のバンドと仲良くなったりしてたんですよね。
今でいうSNSみたいな役割を果たしていたと思います。
このHPをHOTSONICはかなりうまく活用していたと思います。
普通は地元のライブハウスでばかりライブしたり、
たまたま縁があって誘われたら隣町のライブハウスに出演するくらいだったと思うんですが
僕らは
「このライブハウスなんかかっこいい。出て見たい」
と思ったらそのエリアのバンドやライブハウスとコンタクトを取ったり、
「京都でもイベントしたいから京都のバンドと知り合おう!!」
と学校の友達に紹介してもらったり
魔法のiらんどで知り合いを増やし
高校生にして見事に他府県で主催イベントを開催しました
その時に知り合ったのがMOLE HILLです。
最初彼らは僕を年上だと思ってたらしくめちゃくちゃ敬語でした。笑
ライブハウスを押さえる時 緊張しながら電話して色々質問していた僕
保留ボタンを押し忘れて
「今の子って敬語変やわ〜〜〜」
って言ってた京都丸太町メトロの女スタッフ!!
覚えてるからなw
しかしメトロの作り好きやった。
ちなみにお金ないんで打ち上げは鴨川の河川敷でしたw
あとどこでイベントやったかなあ〜
茨木クエーサー
桜川スターダイナー
今はもうないライブハウスばかりですが
楽しかったな〜
 
少し話が逸れましたね。
主催イベントというものは当時そんな気軽にできるものではなく
基本的に高校生バンドはライブハウスが組んだイベントにノルマを払って出演する(当時チケットを定価で売れる訳もなく、基本的にノルマ全額をメンバーで割って支払いしていた)
のが普通なんですが、
僕らはありがたい事に集客が良かったので
高校2年生の終わりにいち早く初めての「HOTSONIC主催イベント」を高槻ラズベリーにて開催する事ができました。
その時にしもてくんのやってたバンドも出てくれました。
そして230人を動員するという素晴らしい結果を残せたので、
図に乗ったんだと思います。笑
高校卒業間際の冬には 岡山の友達(小学校時代の親友が岡山に引っ越してから何度か遊びに行き、転校先の学校のメンバーとも仲良くなっていた)に誘ってもらい
全曲コピーで岡山でライブ決行w
しかも交通手段は青春18きっぷを利用して鈍行電車。
正確にはオリジナル曲1曲持って行ってたんですが、
当時のギターのはせがライブ本番でイントロミスりまくって
「無理かも」
とか言い出して演奏中止ww
どんなバンドなんでしょう。
ちなみに岡山の打ち上げは真冬なのに汽車公園でした。
今やったら凍死します!!
 
僕らは当時高校生バンドの一番の目標である
高槻ラズベリー主催「熱血甲子園」という大会で見事優勝!!
そしてその優勝商品が
「レコーディング」
だった訳です。
僕らは高校3年生で初めてのレコーディングを経験するのでした。
もうね、なんかプロっぽさを感じてしまう訳ですよ。笑
なんかあんな遊びで始まったバンドが200人集めたり各地でライブしたりして
挙句の果てにはレコーディング。
ちょっと勢いづいてしまうんですよね。
おそらくこの大会に優勝できなくて レコーディングしていなければ
僕らは高校卒業と同時に解散していたかもしれません。
卒業直前には3年間で出会った各地のバンドをラズベリーに招いて
確か10バンド超えのイベントを2days開催という
なかなか派手な事をやりました。
 
そして高校を卒業し謎の要領の良さでしれっと大学に入学。
当時のクラスメイトのフミという男が
地元の友達もバンドしてるから紹介するわ
という事で出会ったのがガトツ(当時NO-LIP)のなるでした。
そこから枚方大空襲など 同世代の最高の輪ができていったのでした。
SPONGE-104のヨシキは当時打ち上げ全然出なかった癖に現在北新地で和食屋を2軒経営しており、
今飲み仲間です。笑
 
大学1回の夏くらいだったでしょうか
ラズベリーが移転するという悪いニュースが飛び込んで来ました。
移転だからなくなる訳ではありませんでしたが、
僕らはあの場所にあるラズベリーが大好きだったので
猛抗議をしました。
今でも詳しい事情は聞いていないですが
きっと当時の子供な僕たちにはわからなかった色んな事情があったんだと思います。
僕らはそれも知らず喚くだけで本当に当時のスタッフさんたちを困らせたと思います。
もちろん何を言っても決定は覆りませんでした。
最後にイベントを主催することになりました。
旧ラズベリー最後の日を僕に任せてもらえたのは 今思えば本当に嬉しい事でした。
その時開催したイベントが その後何度か節目節目の大事な時に開催するイベントでもあり、
HOTSONICの代表曲のタイトルにもなった
「GRATEFUL DAYS」
でした。
もちろん当時から絶大な人気を誇っていたDragon Ashの曲から取りました。
「グレート」という響きは(これまた当時流行っていたGTOの影響もあってかw)
「偉大な」という意味で捉えがちですが
それは「great」というスペルで
響きは同じでも「grateful」というのは
「感謝する」という意味なんです。
「感謝する日々」
僕の人生を変えてくれた旧ラズベリーに対してぴったりのイベント名でした。
シークレットでオープニングにVUSHIDUが出てくれたり
エグすぎる盛り上がりでした。
そしてそのイベントの大トリを無事果たし
旧ラズベリー最後の日は幕を閉じました。
 
数ヶ月後 新ラズベリーの初日1バンド目もHOTSONICに任せてもらえました。
この2つの出来事は僕にとってとても誇らしい出来事でした。
そしてHOTSONICの初ワンマンも新ラズベリーで決行され
無事SOLD OUT。
その日で当時のギターのはせが脱退、
後輩バンドであったカマンプのてつが加入し、
その後 同期バンドであった麦のしょっぺが加入してくれました。
 
そして運良く(悪かったかもしれないw)
ラズベリーの親会社の運営しているレコード会社の目に留まり、
初めてちゃんとシュリンク包装(キャラメルみたいなフィルム)されたオムニバスCDに曲が収録されたわけです。
今まではCD-Rのケースに自作のジャケットを差し込んで作っていた
いわゆるデモCDだったので
ちゃんと店頭に並んでる様なしっかりしたCDに自分たちの曲が収録された訳です。
同時期にステッカーやTシャツも出来て
ますますプロっぽさを感じてしまった訳です。
そして調子に乗ってライブをやりすぎて留年し、
親を悲しませながらも大学を退学しました。
しかし僕の目には輝かしい未来しか映っていませんでした。
 
ラズベリーが移転して少し経ち
いつしか僕はラズのスタッフになっていました。
僕が受付している時にをジャージ姿で初ライブのチケット取りに来たのがラックライフの大石でした。
しばらく経てば旧ラズベリーがなくなった寂しさも和らいでいくのかなと思っていましたが
数ヶ月経ってもそうはなりませんでした。
新ラズベリーは駅前の住宅街にあり、
近隣から苦情が出ない様にするために色んな規制がありました。
やはりあのだだっ広い駐車場に佇む 周辺なんて何も気にしなくていいラズベリーが好きでした。
そして僕が通い始めた頃にいたスタッフさんは半数ほどになってしまい、
何名か新しくスタッフさんが配属されてきました。
最後の方は良い意味で個人経営っぽさが出ているライブハウスでしたが
当時は系列のライブハウスやレコード会社があったり
結構組織的な雰囲気がありました。
まだまだ子供だった僕にはその感じが嫌で仕方ありませんでした。
近隣からの苦情を防いだり 会社として成立させるためには当然の正論を僕は受け入れる事ができず、
どんどんラズベリーが嫌いになって行きました。
いつの間にかスタッフをやめ、
ムカつきすぎて他のライブハウスに出演してラズに出ない時期があったり、
20歳そこそこにして隣町の茨木にライブハウスを出店する計画まで立てていました。
拙い事業計画書まで作り、お世話になっている人から出資して頂けるかもというレベルまで話は進んでいました。
今思えばあれは僕の経営者としての第0,5歩目くらいだったのかもしれませんw
マジで世間知らずでしたが…
そしてラズと疎遠な状態のまま
HOTSONICは全国デビューを果たしました。
デビュー曲は皮肉にも旧ラズベリーの駐車場で僕が生まれて初めて作った曲
「seize the day」でした。
 
しかし
僕がラズベリーを嫌いになってしまった事を悲しんでくれる後輩たちがいました。
もちろん僕もその状態を望んでいた訳ではありませんし
多少なりとも感情的に、また意地になっていた事は確かです。
そして色々考えた結果
再び旧ラズベリー最後の日のイベントと同じ
「GRATEFULL DAYS」
を開催する事に決めたのでした。
 
その後も節目節目で「GRATEFULL DAYS」を開催しました。
全てをはっきり覚えている訳ではないですが、
ラズベリーへの不満や若い世代への物足りなさなどを感じた時に
イベントを打ってステージから何かを伝えようとしていたんだと思います。
このイベントは毎回本当にいろんなドラマがありました。
僕と同じくらい高槻ラズベリーを愛しまくっていたPONとあかねが逆に僕のケツを叩いてくる事もありました。
マジで生意気な奴らでした。笑
今回のイベントでもあの2人が居てくれる安心感は計り知れなく大きかった様に思えます。
 
そしてそれから10数年が経ち HOTSONICは解散し ラズが閉店する事が決まり、
ラックライフのPONから
「GRATEFULL DAYSの名前を譲ってほしい」
という連絡があり、
僕は喜んで承諾しました。
自慢の後輩であるラックライフにイベントを引き継いでもらえたのはとても嬉しい事でした。
 
今回のライブは僕がもう1つやっていた「いくしかないやろ」というイベントのFINALとして打ち出す事にりました。
大げさでなく ほとんどの高槻の若手バンドがこのイベントに出演してくれたのではないでしょうか?
みんなお金がないから 打ち上げは王将で
集客1位だったバンドだけ俺が奢ってあげて
その後高槻の城跡公演で朝まで二次会という
今やったら毎回補導されそうな日々を過ごしていました。
しかもそれを5日連続開催とかしてましたw
楽しすぎたよな。
 
 
あの頃の後輩たちは
CDデビューして全国ツアーを回っていた僕たちの裏事情なんてきっと知らなかったでしょう。
思った以上に金なんてなく
基本車中泊、良くてネットカフェや各地方で仲良くしてくれたバンド仲間の家に泊めてもらい、
炊飯器を車に積んで ライブハウスの電源を借りて米を炊いて飢えを凌ぐという
本当に絵に描いた様な貧乏生活でした。
憧れてくれてる後輩たちがいる街でバイトなんてしたくなくて
ライブが1週間空いたりしたら夜行バスで東京に行って働きまくって帰ってきたりしてました。
でもその貧乏生活が何よりの思い出でもあり、
今振り返ればめちゃくちゃ楽しい時間でした。
 
2011年
HOTSONICはBIGCATでのワンマンライブを最後に
9年の歴史に幕を閉じる事になりました。
その日に高槻ラズベリーが花を出してくれた事は忘れません。
 
そしてバンドを辞めた僕は3年間自由に過ごそうと決めて
飲み会を開いたり
ライブハウスで個人イベントを開催してみたり
東京に住んでみたり
先輩のBarを手伝わせてもらったり
ライブハウスの立ち上げに関わらせてもらったり
とにかくフラフラしていました。
 
16歳の頃 少ない選択肢の中からバンドを選び
9年間走り抜けましたが
28歳になった僕はある程度選択肢が広がってしまい
何を選んでいいのかわからない状況でした。
 
そんな時 元々アイスラッガーというバンドをやっていた慎太郎が背中を押してくれました。
彼はバンド時代はほとんど共演した事もなく 関わりも薄かったのですが
バンドを辞めてから縁がありよく話す様になっていました。
そして慎太郎のお陰で経営者の第一歩目となる
1店舗目 bar willを出す事が出来ました。
 
そしてそのbarにすぐに駆けつけてくれたのが
今でも本当にお世話になっているUVERworldの皆さんでした。
僕が高校生の頃
「SOUND極ROAD」(後のUVERworld)がツアーで高槻ラズベリーに出演した事があり、
その日HOTSONICは地元バンドとして出演していたのでした。
実際にちゃんと話せる様になったのはバンドを辞めた後に再会してからですが、
本当の出会いは高槻ラズベリーでした。
 
そして個人事業主としてbarを経営していた僕をみて
お前はちゃんと法人にしてもっと大きくなるべきや と僕のわからないところを全部教えてくれたのが当時の先輩バンドdimpleのポチさん。
willのロゴを作ってくれたのは昔よく一緒に共演したDUFFの元メンバー マサト。
4RESTGARDENのロゴやアートワークを担当してくれたのはライブハウスでブッキングマネージャーやってた山本。
JKだったりょーがいつの間にか料理教室を開いてて うちのキッチンスタッフが受講しに行ってる。
先日のライブの撮影を仕切ってくれたのは元2nd STAGEの大地が経営している会社。
昔HOTSONICのライブに来てくれてたダイチが今美容室を経営していて ライブ前日に髪を染めてくれた。
去年末はバンド某先輩バンドが結婚式二次会を4RESTでやってくれた。
willにはバンド時代知り合ったみんながたくさん飲みに来てくれる。
人材の会社も3QUARTERのたいらが立ち上げ時に力貸してくれたり、
同じく3QUARTERののりおの弟が今営業部を仕切ってくれている。
去年から始まった福祉事業も あいぼりーって高校生バンドやってたあやかが保育士として現場の代表で入ってくれてる。
GRATEFUL DAYSに出てくる夢物語っていうのはこういう事なんですよ。
そもそも中学の時に美容師目指してた友達がいて
そいつと
「じゃー俺バンドで売れるからお前が専属スタイリスト(そんな言葉当時知ってたかわからんけど)になって髪の毛やってな!!」
なんて 学生時代誰もが一回はしそうな しょーもない会話を思い出しながら書いた歌詞です。
でも今 夢物語が現実になりまくってるんですよね。
 
全て挙げればキリがないけど
本当にバンドをやっていて良かったと思う事がしょっちゅうあります。
僕らは本当に楽しくバンド出来て
完全燃焼して
そしてめちゃくちゃ愛情に包まれながら解散する事ができました。
先日久しぶりにラストライブの映像を見返して
最後に
「世界一幸せなバンドでした」
と言ってましたが 今でもそう思います。
当時の仲間や後輩たちが売れて行ったりする姿を見て悔しいという気持ちは全く湧いて来ず
本当に心から嬉しくて誇らしい気持ちです。
それはきっと今の自分に胸を張れているからってのもあると思います。
そしてその全ての始まりは 間違いなく高槻ラズベリーでした。
 
しかし日に日に高槻ラズベリーに行く回数は減り
思い出すことも少なくなっていきました。
まあバンドが解散して月日が経ち
知っているバンドが減ったり
情報が入って来なくなるので当たり前といえば当たり前かもしれませんが…
そんな僕が数年ぶりにラズベリーに行ったのが
CHAMELEONという横浜の後輩バンドの大阪ラスト公演でした。
僕が好きな曲だからという理由で最近やってなかったであろう曲を演奏してくれて
ビール飲みながらそのライブを見て
僕がバンド辞めて何も考えてない時にも
このライブハウスを守ってくれてた人たちが居たんだな〜と思いました。
そしてその日しもてくんから
「直紀はまだまだ高槻で影響力を持ってるから近々何かやろう、
bar willに行くから打ち合わせしよう!!」
という言葉をもらいました。
 
しかし待てど暮らせどしもてくんはwillに来ない。笑
心斎橋にライブ見に来たりしてるけど来ない。
結局口だけかいと思い 僕は再びラズベリーを思い出す事が減っていきました。
閉店が決まったという電話を店長のしもてくんからもらった時
正直僕はあまり何も思いませんでした。
そら潰れますわ くらいの感想でした。
 
そんな中twitterやインスタで当時ライブに来てくれていたみんなから
「ラズが閉店すると聞きました。最後直紀さんが何かしてくれるのを期待してます!!」
といった類の連絡が沢山届きました。
その中の1人に 僕らをメジャーデビューまで連れて行ってくれたプロデューサーからのラインもありました。
そう、僕らに全国100箇所ツアーを提案してきた無茶なプロデューサーです。笑
 
なんとそのプロデューサーがまたしても高槻出身のバンドを担当していて、
そのバンドは全員女の子で、そしてこのネットが発達した時代にも関わらず
僕らと同じ様な無茶なツアーを敢行しているという
最高な奴らでした。
僕のイベントにも出てくれた事のある「PICKLES」
HOTSONICの最後の後輩といえる世代のバンドでした。
プロデューサーのHOTSONICとPICKLESの共演を見たいという夢は叶える事が出来ませんでしたが、
僕の最後のイベントはあの連絡がなければきっと実現しなかったし 後悔したと思います。
 
 
PICKLESが数日後に高槻ラズベリーでライブをするということで
僕は見に行く事にしました。
またしても数年ぶりのラズベリーでした。
その日にこの場所がなくなるということを遂に実感し、
いろんな人からもらった声も相まって
最後にイベントをしようかな、と思い始めました。
そしてしもてくんにも僕が感じていた違和感をしっかりぶつけた上で
イベントよろしくお願いします、と握手を交わしてラズを後にしました。
 
翌日からイベントに向けて動き始めたものの
フルメンバーでの復活は叶いそうもなく、僕は開催を諦めかけました。
さすがにHOTSONICなしでイベント開催は難しいと思っていました。
しかし奇跡的なタイミングで
僕がバンドを始めたきっかけの1つである
Hi-STANNDARDの大阪公演にお邪魔する事が出来ました。
僕がインディーズのライブを見に行ける様になった頃には既に活動休止しており、
数年前に復活した時はめちゃくちゃ感動しましたが
色々とタイミングが合わずライブを見る事は出来ておらず、
僕は33歳にして初めて生Hi-STANDARDを見る事が出来ました。
最高の時間でした。
そしてその時ちょうどハイスタのドキュメンタリー映画が公開されており、
僕はライブを見た2日後に 1人でその映画を観にいきました。
震えました。
 
あの伝説と言っていいバンドが 色んな出来事があって活動休止を選び、
そして日本のためにできることしよう と復活し
最高にかっこいい活動をしている。
僕はそれを見てHOTSONICごときが何をもったいぶってんねん、
最後生まれ育った街のライブハウスのためにやっぱりやらなあかんやろ
ともう一度イベント開催に向けて動き始めました。
 
一度イベント中止に近い空気になっていましたが しょっぺはすぐやろう!!
と言ってくれました。
そして残りのメンバーにも心からの気持ちを伝えました。
結果的にフルメンバーでの復活は実現しませんでしたが、
1回目にダメで諦めかけた時とはまた違う気持ちでした。
やるだけやってやっぱり駄目だった というある種清々しい気持ちで踏ん切りをつける事が出来ました。
 
僕はそこから色々考えました。
実はラックライフの大石は 既にその日叩いてくれる事を承諾してくれていました。
残るはギター。
俺たちも楽しくやれて 当時のファンも納得してくれるのはこの人しかいないと思って
REAL REACHの政雄さんに連絡しました。
すぐには会えなかったけれど 時間を調整して4RESTGARDENに来てくれて、
僕は内心ドキドキしながら 1日だけHOTSONICでギター弾いてくれないかとお願いをしました。
正直ダメ元でした。
しかしあの最高の先輩は迷う事なくOKしてくれました。
政雄さんに断られていたら おそらくイベント自体の開催は難しかったと思います。
そしてヤスくんまでも力を貸してくれる事になり、
この時点でイベントの開催が確定しました。
 
そこからの数週間はバンド時代を思い出せる楽しい日々でした。
昔の音源を聴いたりDVDを見たり。
体力持つ気がしなかったので ちょっと食事制限とか運動とかもしました。笑
スタジオも昔使った事のある場所を予約しました。
数回の練習でしたがめちゃくちゃ楽しかったです。
あの練習の合間の休憩とかも懐かしかったな〜
 
 
そしてイベント当日。もうリハとか顔合わせとか 全部懐かしくて楽しいんですよね。笑
チケットも予約を開始してかなりのスピードで問い合わせがあり、
無事にSOLD OUT。
解散してから8年も経ってるバンドのライブにこんなに色んな人が集まってくれて
嬉しくて仕方なかった。
 
1バンド目は当時スタジオ練習一切なし
全曲コピーでワンマンまで開催してしまった
勢いだけでやりきったバンド 暴弾直鬼。
 
セットリストは
STAY GOLD/Hi-STANDARD
春風/SQUEEZE!!
START/locofrank
DON’T WORRY BE HAPPY/MONGOL800
日本刀/RIZE
はんぶんこ/Bivattchee
小さな恋の歌/MONGOL800
Take a glory!!/REAL REACH
 
曲によってメンバーが変わる形式で、
当時高校生やったけど 今も現役で音楽続けてる若手バンドマン達が出演してくれました。
お互い高校生の頃からずっと一緒にやってきた 今や人妻のピンキーショコライオンえりざべすも体調不良の中 一曲だけ歌いに来てくれた。
唯一自分のイベントを託した後輩 あかねも一曲歌ってくれた。
日本刀ではカズマサ、あきひろ、ありちゃんが登場。
芸人になる前HOTSONICのライブで暴れ倒してた8.6秒バズーカーのはまやねんも一曲参加。
元ストレス社会のあかりも乱入!!
なぜかうちのbarのスタッフりょーいちも乱入!!
PONとはもはや阿吽の呼吸やった。
そして間に合わへんと思ってたけど Take a gloryの途中でまさかの政雄さんとやすくん到着。
最高すぎました。
ギターぽっきー、ベース白石
ドラムやってくれたよしお、いのっき、かなでも本当にありがとう
やっぱこのイベントの1番手は暴弾がやらんとね。笑
 
2バンド目イオンサプライはいろんな事情があって元々のメンバーが出れず、
ほぼスリクオという構成でした。笑
高校生の頃よくイベント出てくれてた同い年のバンド。
ELLEGARDENやB-DASHを聴けて楽しかった。
この辺から俺はほとんど最前列にいました。
 
そして3バンド目は今も音楽を続けているMOLEHILL。
15歳から知ってる京都の親友たち!!
もう会う事もだいぶ減ってしまってたけど、
イベント開催を発表してしばらくしてボーカルの大作から
「もし枠があればでいいから俺たちも最後にラズベリーで演奏したい」
とラインが来ました。
そしていくつかのやりとりを経て
俺たちが出会った頃の曲をやってくれる。
さらにはガトツの曲を1曲カバーしてくれる。
という最高の内容で出演してくれる事になりました。
MOLE HILLプラス ガトツなる&俺で
「星に願いを」を歌ったのはほんまにエモかったな…
最高でした本当に。
10年ぶりに「一番星」
そして俺が大好きな「立ち上がれ」も演奏してくれた。
泣けた。
 
トリ前は3QUARTER
先述した様にベースのたいらは僕のライブハウス初ライブを目撃しているレアなやつw
めっちゃ仲良かったけど ライバル同士のバンドとして見られる事も多かった気がするよな。
本当に名曲揃いやし いろんな大会で優勝したりして
羨ましく思った事もたくさんあった。
解散してから一番時間が経ってるし
家庭や商売もあって多分彼らが今回一番大変やったかもしれない。
けどあんだけ最高のライブしてくれて
俺の大好きやった曲をやってくれて
本当に出てもらえてよかったです。
旧ラズベリーを思い出させてくれる30分でした。
 
そして最後 HOTSONIC(の曲をやるBAND)
SEも当時のものをなんとか入手しました。
入場の時点でもう懐かしい気持ちで
本当に昔に戻って楽しむ事が出来ました。
あの頃俺たちを支えてくれていたファンのみんな、
一緒に夢を追いかけた仲間、
僕らが夢を託した後輩たち、
そして今僕がもう1つの家族と思っている会社のメンバーが
みんな汗だくで 満員のライブハウスで楽しそうに騒いでいる姿は
何にも代えがたい景色でした。
幸せ者すぎます!
 
GRATEFUL DAYS
city girl
so happy day
今はいつか
一人じゃない
seize the day
GRATEFUL DAYS
 
他にも大切な曲や やりたい曲があったけど
考え抜いてこのセットリストにしました。
マジで楽しかった!!
きっと 中学生の僕がHOT SONICをやってる僕を見たら
マジですげーと思うでしょう。
HOT SONIC時代の僕が経営者として生きている今の僕を見たら
なかなかやるやんけと思うでしょう。
でもその今の僕の周りにはもっとすごい人たちが一杯いて
ホンマに勝てる気がしません。笑
これはもしかしたらどこまで行っても終わらないスパイラルなのかもしれません。
ただ バンドやってた頃
絶対勝てる気がしないすげーバンドと共演した時
やっぱりステージの上では倒す気で戦ってた事を思い出しました。
その気持ちを少し取り戻せた気がしました。
今でも当時の狂った行動力を持ってた自分に勝てる気がしない事多いんです。笑

でも越えないといけませんよね。

 

5年後、10年後
今の自分が見て 尊敬できる男になれる様に
そして あの頃の僕を知ってくれている皆から
やっぱ直紀さすがやな と思ってもらえる様に過ごしていきたいと思います。
まあでも 本当に大事なものは何か?
いくら稼いでるか
どういう職業についたか
有名か無名か
友達が多いか少ないか
そういう事も1つの物差しかもしれませんが自分の生き方に納得していれば 本当は勝ち負けなんてない気がします。
答えは探すものではなく思い出すもの。

この先の人生で何かを見失った時 僕は間違いなくラズベリーで過ごした日々を振り返るでしょう。

 

最前列で泣いてた自慢の後輩よ。
あとは任せた。
あんなに頼りなかった君たちが今多くの人の心を震わせるバンドになった事を僕は心から誇りに思います。
実は僕らのライブの2日後の
ラズベリー本当の本当に最後の日も
行く予定じゃなかったんですが行ってしまいました。
全バンドシークレットなのに超満員で
ラックライフが最後を立派に締めくくってました。
泣いたしダイブもした。

ラズベリー最後のバンドがラックライフで本当に良かった。

 

 

高槻ラズベリー 27年間お疲れ様でした。
本当に僕の人生を変えてくれた場所でした。
あの場所のおかげで 僕は誰にも負けない
最高の青春を過ごす事ができました。
いつかまたあの街に違う形で生まれ変わる日が来たら

その時僕ができる事をしたいと思います。

 

僕の会社名「4REST」
10-FEETの曲名。
先輩経営者から直紀は自分の会社をどんな会社にしたい?
それをそのまま会社名にしたらいいと思うよ
と言われ 思い出したのがこの言葉でした。
10-FEET TAKUMAさんに許可を得て名付けた 本当に思い入れのある社名です。
意味はTAKUMAさんが唱えている様に「人生に必要な4つの安らぎ」
「家族」「仲間」「音楽」「酒」
僕が育った高槻ラズベリーにはこの全てがありました。
いろんな物をもらいました。

僕も人生をかけてそんな場所を作って 今度はそれを渡せる人間になれたらと思います。

 

最後に気付いたけど
この文章を書いてる4月4日って
HOT SONICの初ライブの日だったな。
こういう不思議な偶然は何かを語りかけてくれてる気がするんですよね。
きっと初心に帰れという神の声ですね。笑
このタイミングでこの気持ちになれた事に心から感謝します。
 
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ
 
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か
曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる
事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
 
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大そして
偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる」
 
2019年3月29日 ステージから見た景色を僕は忘れません。
僕は最高の人生を生きてる と言い切れます!
みんなも自分の人生を楽しんでください。
またいつか会いましょう!!
 
2019年4月4日
HOTSONIC 直紀
 
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次